今帰仁城とは

コバルトブルーの海、手つかずの自然。青く澄んだ空に、ゆっくり流れる時間。そんな非日常を感じられる所、沖縄。注目すべきスポットは沢山あります。ちゅら海水族館や首里城など、とても1日では見切れないのではないでしょうか?
そうなって来るとやはり目的を決めて行動するかと思います。限られた期間はやはり有効に使いたいものです。
その目的の中に是非とも加えてほしいスポットが1つあります。
それは「今帰仁城跡」です。オリエンタルな魅力たっぷりなこの遺跡は、1つの目的としては十分すぎるくらいかと思います。
そこで、このページでは魅力たっぷりの世界遺産、今帰仁城跡を紹介していこうかと思います。

今帰仁城跡とは、沖縄本島の北部、本部半島にある歴史的なグスク(城跡)です。世界遺産にも登録されたグスク(城跡)は、沖縄県の県庁所在地である那覇市から車で約1時間30分の距離にあります。

今帰仁城跡の歴史は古く、13世紀までさかのぼるとされています。堅牢な城壁に囲まれたその城は、標高約100メートルに位置し、やんばるの地を守る要の城でした。
攀安知(はんあんち)時代に、中山軍(ちゅうざんぐん)に滅ぼされてからは、監守(かんしゅ)が派遣されるようになり、1665年に最後の監守が引き上げてからは、祭りを執り行う場所として残されました。

琉球王国の誕生

・グスクの造営とアジの誕生

十世紀~十二世紀頃、琉球列島にはシマ(村)を統率するリーダーが登場します。
彼らは「アジ」あるいは「太陽」や「世の主」と呼ばれ、やがて緩やかな地域統合なされる中、沖縄本島には三つの政治的領域が築かれました。
山北、中山、山南として中国の史書にも登場する三山がこれのことです。
各王は中国(明)と朝貢行い富を得るとともに、その支配権を高めていきます。
やがて十五世紀初めに尚巴志(ショウハシ)によって三山統一が進められ琉球王国が誕生しました。

・琉球王国の精華

琉球は中国(明)の解禁政策により海外貿易を制限していた中で冊封貿易進めます。
中国との交易により富を得て、南はシャム、安南、マラッカなど、北は日本、朝鮮へと船を出し、物産を仲介する貿易を行っていました。
主な交易品は中国陶磁、金、銀、生糸、緞子(どんす)麝香(じゃこう)、などを中国から海外へ、逆に東南アジアからは香料、錫(すず)、象牙、酒などを満載して帰国します。
王国の繁栄は第二尚氏の誕生により隆盛を極め、王府組織の官僚制の整備と土着の宗教体制を整え、琉球独自の神女組織ノ口制度を確立させます。
1609年、薩摩の侵攻により大きなターニングポイントを迎えた琉球は日本と中国の狭間にあって新たな時代への対応を余儀なくされます。
時代に翻弄されながらも十七世紀後半に整備された王府身分制、羽地朝秀(はねじちょうしゅう)・蔡温(さいおん)らの改革等により国家経営を模索、十七~十八世紀には現代に引き継がれる文学、芸能、美術工芸が発展し、王国文化に大輪の花を開花させることになります。
1879年、明治政府は琉球藩を廃止し、沖縄県を設置しました。
ここに450年の琉球王国の歴史が閉じられます。

・三山鼎立(ていりつ)

沖縄島では十四世紀ごろ、今帰仁グスク(山北)、浦添グスク(中山)、島尻大里・南山グスク(山南)を中心としたアジが群雄割拠しました。

今帰仁城の伝説

今もなお語り継がれる今帰仁城の伝説をいくつか紹介します。

・石切り包丁

今帰仁城を囲んでいる城壁は、とても硬い石でできています。城壁の工事人たちは、石を切り、形を整えるのに大変苦労していました。
北谷(チャタン)というところで、農家のおかみさんが畑に出て、包丁で菜っ葉を収穫していました。
日暮れも近くなり、おかみさんは早く収穫しようと、懸命に働いています。
おんぶされていた子供は、お腹がすいてきて、泣きはじめました。
「はいはい、もうすぐ終わるからね…。」とあやしながら、おかみさんは包丁を一振りして菜っ葉を切りました。
すると、おんぶしていた子供の頭が首から切れて、ポロリと畑に落ちました。
この話はまたたく間に国中に広がり、北谷ナーチラーと呼ばれるようになりました。北谷(ちゃたん)の菜きり包丁という意味です。
ものすごくよく切れる包丁だというので、今帰仁城の工事人たちは、「そんなによく切れるのなら石切に使いたいものだ」と今帰仁城に献上させました。
この包丁を使うと、硬い石がスパッと切れるので、それから後は、城壁の工事がどんどんはかどりました。
後に琉球国王、尚家の家宝として大切に伝えられました。

・名刀千代金丸

今帰仁城の王様ハンアンチは、武力にすぐれ、中国との交易で富を得ていました。
しかし、おごり高ぶり、城内外のひとびとに対し情け容赦なく振舞っていましたので、周辺の按司たちは、ハンアンチ王を倒し、人気のあった尚巴志王を立てようと相談していました。
決戦のときが来て、尚巴志王は按司たちを集め、3000名の連合軍が今帰仁城へ攻め上ったのでした。
2日間におよぶ戦いが繰り広げられましたが、今帰仁城の城壁はとても高く、攻め入るすきがありません。?攻める尚巴志の軍勢のほうが、つぎつぎと倒されてしまいます。一計を案じた尚巴志王は、作戦を変えました。最も険しい志慶真川の断崖から、闇夜にまぎれて密使を忍び込ませることにしたのです。
険しいところなら、きっと見張りが手薄にちがいない、と考えたのです。
密使の行く先は、本部平原(モトブテイハラ)でした。本部平原はハンアンチ王の側近で、腕力がありましたが欲張りでした。密使はワイロを贈り、謀反を起こすようそそのかしたのです。
翌朝、本部平原はハンアンチ王に、「もう2日も外に出て戦っていない。敵はわれわれを臆病者というであろう。自分は裏門から出て敵を倒す。王は正門から出て敵を追い散らしたらよかろう」
ともちかけます。
ハンアンチ王の一隊は正門から出て、かなり先まで進軍しましたが、ふと振り返ると、城内から火の手が上がっています。
あわててとって返すと、本部平原が「わが手に撃たれよ」と待ち構えていました。
激怒したハンアンチ王は、自慢の名刀千代金丸で本部平原を切り倒し、守り神のところへ走っていきました。
「自分を守ってくれなかったな!」と、腹いせにご神体の石に切りつけ、その刀で切腹しようとしました。しかし、刀が切れなかったので、志慶真川に投げ捨てて、腰の小刀で切腹しました。
後にこの刀、名刀千代金丸は志慶真川から拾われて、首里城の王様に献上されました。?

今帰仁城の歴史

ここでは今帰仁城の歴史を紹介したいと思います。

今帰仁城跡の歴史は古く13世紀まさかのぼります。正確にいつごろに誰によって築かれたかは、現時点では不明です。今後発掘調査が進むにつれ解明されるでしょう。

・三山時代

14世紀の中国の史書に琉球国山北王「(はにじ)」「珉(みん)」「(はんあんち)」の三王が登場します。この頃の沖縄本島は北部地域を北山、中部地域を中山、南部地域を南山がそれぞれ支配した「三山県立の時代」でした。北山王は沖縄島の北部を中心に支配下とし、中国と貿易をしていました。しかし1416年に中山の尚巴志によって滅ぼされ、北山としての歴史の幕を閉じることになります。

・監守時代

北山の敗北後、中山は北部地域の管理とし監守を設置。1422年以後監守の居城としてグスクを利用します。しかし1609年に薩摩軍による琉球侵攻にあい、城は炎上しました。監守が住まなくなって以後は御嶽とし精神的拠り所として広く県内から参拝者が訪れました。

・監守時代以降

監守が首里に引き上げたとされる1665年以後の今帰仁村は精神の拠り所として崇拝されてきました。現在でも今帰仁城跡には火神の祠があり、その時代を垣間見る事ができます。

今帰仁城内からは中国や東南アジアなどの陶磁器が多量に出土し、往時の繁栄をうかがわせています。北山は尚巴志に1416年(1422年説もあります)に滅ぼされますが、北山が滅ぼされた後も旧北山統治の要所として引き続き使用され、北山監守が派遣されています。1609年の薩摩藩による琉球侵攻の際には、その攻撃の第一目標となりました。
現在も石垣などの遺構の整備が進み、今帰仁城跡として1972年(昭和47年)5月15日に国の史跡に指定されました。
門から城の中心部へと向かう階段(戦後に造られたもの)の左右にはカンヒザクラの並木があり、毎年1月末~2月始めに開花します。
本部町の八重岳などと並び、沖縄県の桜の名所として知られている。
城内には志慶真乙樽歌碑や山北今帰仁城監守来歴碑記などの碑もある。
2000年(平成12年)11月に首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました(登録名称は今帰仁城跡)。

伝説の美女

・美女伝説、志慶真乙樽(シゲマウトゥダル)
  今帰仁城跡にまつわる「志慶真乙樽」(しけまうとぅだる)の逸話があります。
時代は怕尼芝(はにじ)が今帰仁城跡を治める以前といわれています。
志慶真村の出身で、乙樽(うとぅだる)という名の美しい娘がいました。
その頃、今帰仁城を領していた世の主に迎えられ側室になりました。世の主には長らく子が授からなかったのですが、ようやく正室の方に千代松と名づけられる子が生まれました。

  跡目ができ安心したのも束の間、世の主の臣下の本部大主(もとぶうふぬし)が反乱を起こしました。
正室も、側室の乙樽も命からがら逃げ出しますが、産後間もない正室は、逃げ切れないと悟り、千代松を乙樽に託して志慶真川に身を投げて果ててしまいました。
その後、乙樽は、千代松を立派に育て上げます。そして、一人前になった千代松は、丘春(おかはる)という名に改め、かつての臣下と共に、父の仇である本部大主を打ち倒しました。
そして、自らが若按司となって今帰仁城に入城しました。

 若按司丘春の活躍を支えたのは、彼を自分の子のように育てた乙樽でした。
その美貌と献身的なふるまいを讃えるように「今帰仁ウカミ」の言葉も生まれました。乙樽の墓は、グスクのふもとあたり、志慶真川ぞいの崖に面した所にあります。

 また、グスクの大庭の一角に、志慶真乙樽の歌碑があります。後世の人が詠んだ琉歌です。

  今帰仁のぐすく 霜なりの 九年母
   しけま乙樽が ぬきやいはきやい

 「霜なりの九年母」とは、時期遅れのミカンを意味し、「ぬきやいはきやい」は、九年母の実を糸で貫いてかけることから転じて、大切にすることの意だといいます。

いまでもその名残なのか、今帰仁周辺には美人が多いと言います。
内地からの観光客だけではなく、沖縄に住んでいる方も口をそろえて「うん。今帰仁は美人が多いよー」と言っているのでまず間違いはないでしょう。
今帰仁城跡の魅力がまた一つふえましたね。

御嶽と祭祀

・海神祭(ウンジャミ)

旧盆明けの亥の日をはさみ三日間「ウンジャミ」の祭祀(さいし)が行われます。
一日目は、ウーニと呼ばれる土盛で船漕ぎの行事を、二日目には「グスクウイミ」と呼ばれ城内のハサギ跡(北殿跡)で五穀豊穣、無病息災、家内安全、子孫繁栄を祈願し、さらに主郭の「火神の祠」、「カラウカー」、「ソイツギ」、「テンチジアマチジ」の各拝所を廻って祈願をします。
それから平郎門を出て城外旧道の小道(ハミミチ)を通り、シバンティーナ浜で御願します。神人を率いる先頭はトウシンケージの旗を掲げ、最後は今帰仁ノ口殿内近くの小高い丘(プイヌモー)で今帰仁城跡にむかって拝み、グスクウイミの終わりを告げます。
最終日三日目はシマヌウイミといい、今泊区内の旧親泊・今帰仁の両シマ神ハサギで執り行われます。
現在では、これらの祭祀も昔から行ってきた神人達(かみんちゅ)の高齢化等から、祭事そのものが簡略化して、古式にのっとった祭祀はほとんど失われているのが現状です。

・斎場御嶽(せいふぁーうたき)

沖縄県南城市にある沖縄最高の霊地。琉球開闢(かいびゃく)の神アマミキヨによってつくられたという七御嶽の一つで、琉球王朝時代、最高神女であった聞得大君(きこえおおきみ)の即位儀式が行われた聖地として有名です。平成12年(2000)「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録されました。

・ウーニー

舟をかたどった土盛りが二つあり、レコーラのウーニーといいます。
一つは今帰仁ウーニー、もう一つは本部ウーニーと呼ばれています。
七月の海神祭(ウンジャミ)の二日目に行われ、航海の安全を祈ります。

自然豊かな今帰仁村

現在の今帰仁は、沖縄に住んでいる人にとっても、自然に触れて癒されるところです。
週末には、観光のお客さまばかりでなく、沖縄県民が訪れます。
今帰仁は、人口1万人程度の純農村です。行政上の今帰仁村は、なきじんムラではなく、なきじんソンと言います。
昭和30年代までは水田が広がっていましたが、現在はスイカやマンゴー、電照菊の栽培が盛んです。
民家の庭先や道路沿いには、さまざまな色のハイビスカスが咲いています。ハイビスカスは今帰仁村の花に指定されています。
また、古宇利島を結ぶワルミ大橋の完成で、今帰仁から20~30分で古宇利島へ行けるようになりました。
古宇利島は小さい島ですが、人類発祥伝説、ジュゴン、ウニ丼など話題がいっぱい詰まった島です。
今帰仁での楽しみが増えそうですね。

・日本一早い桜

今帰仁城の桜は八重岳に続き日本一早く咲き、桜の名所でもあります。
毎年1月中旬から下旬に咲き始めます。桜の種類は緋寒桜。
ヒガンザクラと間違えるので、寒緋桜と呼ぶようにしたのだそうですが、緋は濃いピンクの花色を、寒は、寒さが来ると花が咲く性質を表しています。
沖縄では、寒い北のほうから開花するのですが、この桜の性質によるのです。
桜の本数は城内外で600本程度と少ないですが、見どころは、城壁と桜の独特の景観にあります。
桜の時期には、カメラ愛好家もどっと押し寄せ、撮影する姿が見られます。
夜間のライトアップも行われるので、桜まつり期間なら、ライトアップされた桜や城壁を楽しめます。
沖縄に行く時期を桜の開花に合わせたい!という方も多いでしょう。
植物ですから、咲くまでの気温、咲いてからの気温に大きく影響されます。
暖冬なら開花は遅くなり、咲いてから気温が上がれば、花が早く終わります。
最も確実と考えられる開花の目安は、旧暦を見ることです。
農事歴に旧暦を使うのは、植物は旧暦にあわせて生育するからです。
「旧暦1月1日に見ごろになる。」これが桜の開花状況の一つの目安になります。

11月まで鳴くセミ

秋に今帰仁城へ訪れた方は、ケーンケーンという不思議な音に気づく事でしょう。
実はセミの鳴き声で、このセミはオオシマゼミといいます。
奄美大島から沖縄の北部までの限られた地域に生息しています。同じ沖縄でも那覇では聞くことができません。
体長5センチメートルくらい。羽が透き通っていて、ツクツクボウシの仲間です。
鳴き始めるのは、梅雨明け後の7月、鳴き終わりは12月上旬と、長い期間なのですが、最盛期は10月の少し涼しくなった頃です。
秋に今帰仁城を訪れたら、家族や友達に教えてあげてください。

・琉球すみれ
リュウキュウコスミレは琉球の名が付いたスミレです。
他にはない沖縄島独自の特徴をもっているという意味で、琉球スミレと呼ばれます。
リュウキュウコスミレは花の色が変化に富んでいます。
白地にムラサキの縞の入った花や、淡いムラサキ、濃いムラサキ、白花もあります。
意外に知られていないため、スミレに気づく人はほとんどいません。
咲く時期は11月から4月までと、長い期間、花を楽しむことができます。
大隅の郭に咲いていますから、探してみてください。
新種を発見できるかもしれませんね

・鉄砲ゆり
テッポウユリは沖縄島に自生しているユリです。
5月になると長く伸びた茎に、直径5センチメートルくらいの大きな純白の花を咲かせます。
テッポウユリの名前は、筒状の花のかたちが昔の鉄砲に似ているので、鉄砲百合と名付けられたということです。
今帰仁城内にも自然に生えていますが、お客様にテッポウユリを楽しんでもらおうと、2年前からテッポウユリの植え付けを始めました。
ところが、テッポウユリは連作を嫌うため、そのままにしておくとやがて消えてしまいます。
そのため、毎年球根の植え付けを行っています。
球根を分けて埋めることで増やせるのですが、種もよく実り、風に飛ばされて繁殖します。
自然界では風のちからで、遠くに移動する仕組みが備わっているのです。
テッポウユリを見るには、5~6月に志慶真城郭へ行くと見られます。

志慶真城郭は主郭の右手から降りる道があります。
仮設通路ですので足元に気をつけて。

遺跡案内

ここでは今帰仁城の遺跡を案内しようと思います。

・主郭(しゅかく)

大庭の東にある一段高くなった郭を主郭と呼んでいます。主郭には多くの礎石が現存し、桜の植樹のためか、一部移動させられている石もありますが、かつての建物の形がいくらか想像できます。1982年から4年間発掘調査が行われました。発掘調査の結果13世紀終わりころから17世紀初め頃まで機能していたことがわかりました。監守引き上げ以降は、火之神の祠が設置され、さらに来歴碑が建立され祭祀を行う場所として利用されています。発掘調査が完了し、現在のように整備されました。

・御内原(うーちばる)

北殿跡の北側、一段高いところを御内原と呼んでいます。ここは、かつて「女官部屋」があったといわれているところです。城内でも崇高な場所とされ男子禁制の御嶽テンチジアマチジがあります。北端からの眺望は城内で最もよいところで、大隅一帯の石垣をはじめ今帰仁村全域、伊平屋・伊是名の島々、国頭の山並麓、晴れた日には遠く与論島が眺められ、海を眼下に見ることができます。

・大庭(うーみやー)

平郎門からまっすぐ伸びた七五三形式の階段を登りつめると開けた広場に出ます。ここは大庭(ウーミヤー)とよばれ、南側には南殿があったと推定され、北の一段高くなったところが北殿跡とされます。その建物の跡と見られる礎石が今も残っています。

・七五三の階段

平郎門から大庭まで続く参堂は戦前に地元民によって桜の植栽とともに直線道に整備されます。戦後まもなく米軍の車両が城内へ登ることから、戦災文化財の修理として文化財保護委員会の指導のもと、今見る階段の整備が行われました。

・大隅(うーしみ)

平郎門を通り抜けて、大庭に向かって左側部分を大隅と呼んでいます。現在蜜柑や桜が植栽され、城外に抜けられる洞穴もあり、面積はかなり広い郭の一つです。ここは、かつて「城兵達の武闘訓練の場」であったと想定されており、以前大量の馬の骨が発掘された場所です。

・カーザフ

カーザフは、平郎門からはずれた右側のくぼ地になったところをいいます。ここは、一段と低い所でその両側は切り立った「谷底」になっています。この地名の語義は「川迫(さこ)」つまり、川の谷間として理解されています。露頭した岩盤に直接積んだ堅固な石積みは、かつて城壁として鉄壁をほこったものと想像することが出来ます。

・平郎門(へいろうもん)

平郎門は今帰仁城の正門で、その名称は「琉球国由来記」に「北山王者、本門、平郎門ヲ守護ス」として登場します。現在見る門は、昭和37年(1962)に修復されたもので、左右に狭間があり、門の天井は大きな一枚岩を乗せた堅牢なつくりとなっています。

・外郭(がいかく)

昭和50年、沖縄海洋博覧会の工事の進む中、石垣が積まれた箇所の発見がありました。これが城郭の一部であることが確認され、昭和54年12月28日に国の史跡として追加指定されました。高さは2メートル前後と比較的低い石垣が延長数百メートル蛇行して続きます。石垣で囲まれた空間を外郭と呼んでいます。最近調査が行われ、外部の整備が進められています。

今帰仁ってどこ?

ここでは今帰仁城跡がある今帰仁のことを紹介します。

今帰仁村(なきじんそん)は、沖縄県国頭郡の村で、沖縄本島の本部半島のほぼ北半分に位置します。北東部には1.5km離れた古宇利島があり、2005年に名護市の屋我地島と橋で結ばれました。
2010年には屋我地島と村内側の本島とを結ぶワルミ大橋が開通しました。(古宇利大橋の開通後、ワルミ大橋の開通までは、古宇利島から村役場のある仲宗根に向かうには一旦名護市を経由して羽地内海を迂回しなければなりませんでした)。
村の中央部を大井川が北流し、東シナ海へ注がれています。

今帰仁の街、地名

・天底(あめそこ)
・今泊(いまどまり) - 1972年に今帰仁(なきじん)と親泊(おやどまり)の二集落が合併して誕生
・運天(うんてん)
・兼次(かねし)
・上運天(かみうんてん)
・古宇利(こうり)
・越地(こえち)
・呉我山(ごがやま)
・崎山(さきやま)
・謝名(じゃな)
・諸志(しょし) - 1903年に諸喜田(しょきた)と志慶間(しじま)の2集落が合併して誕生
・勢理客(せりきゃく)
・玉城(たましろ)
・渡喜仁(ときじん)
・仲尾次(なかおじ)
・仲宗根(なかそね)
・平敷(へしき)
・与那嶺(よなみね)
・湧川(わくがわ)

今帰仁の歴史

・琉球王朝時代は北山(沖縄本島北部)の中心地が今帰仁城に置かれました。
・1666年 本部半島全域だった今帰仁間切が南半分分割されて本部間切となりました。
・1908年 島嶼町村制により今帰仁村となりました。
・1916年 役場が運天港から現在の仲宗根に移りました
・1969年 沖縄本島初のUHFテレビ中継局として沖縄放送協会(OHK・現NHK沖縄放送局総合テレビ)の今帰仁中継局が乙羽岳に設置され、北部地区をカバーすることになりました。
(本土復帰の1972年には教育テレビ、1974年にはFM放送がそれぞれ県内での放送開始と同時に設置され、民放は1981年にようやくRBCテレビとOTVが設置。1984年にはFM沖縄が、1995年にはQABがそれぞれ開局と同時に設置されました。2007年には地上デジタル放送も開始されました)。
・1988年 これまで本部港から就航していた伊是名航路が、運天港発着に変更されました(1990年には伊平屋航路も運天港に変更されています)。
・1993年 村内を通る主要地方道本部循環線(当時県道71号)が国道505号に昇格、村内初の国道となりました。
・2002年 今帰仁城址が世界遺産に登録されました。(首里城などと同時)
・2003年 村内の中学校(一部小学校併置校も含む)が生徒数減少に伴い1校に統合され、現在の今帰仁村立今帰仁中学校が開校しました
・2005年 古宇利島と名護市の屋我地島とを結ぶ古宇利大橋が開通。島民にとっては念願の本島との陸続きとなりました。
・2010年 ワルミ大橋が開通。

沖縄の世界遺産

沖縄にある多くのグスク(城)及び遺跡の中から、5つのグスク(首里城、中城城跡、座喜味城跡、勝連城跡、今帰仁城跡)と、その関連遺産の4つの遺物(園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽)が第24回世界遺産委員会会議で2000年(平成12年)に世界遺産登録されました。これらの公式名称は、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」といいます。

・首里城跡  

首里城跡  南部、那覇
  入場料  大人800円?国指定史跡 1972年5月15日?首里城は尚巴志(しょうはし)によって三山が統一された1429年から1879年まで、歴代国王の居城でした。
  詳しい築城時期については不明ですが、12世紀に舜天王(しゅんてんおう)が規模を拡大、15世紀に尚巴志が内郭を、その後外郭を整備したと伝えられています。
  敷地面積は62,000平方メートル。歓会門(かんかいもん)・瑞泉門(ずいせんもん)・漏刻門(ろうこくもん)・広福門(こうふくもん)・奉神門(ほうしんもん)も首里城公園内に含まれます。

・中城城跡(なかぐすく)

中城城跡  中部 北中城村
  入場料  大人300円
国指定史跡 1972年5月15日?15世紀中頃、築城家の名手と言われた護佐丸が築かれたと伝えられています。首里王府に対抗する勝連城主の阿麻和利を牽制するために、座喜味城主であった護佐丸が国王からの命令により移り住んだ城です。しかし琉球王権を狙う勝連城主の阿麻和利に攻められ護佐丸は自害しました。山の上にありますので景色が最高です。

・座喜味城跡(ざきみ)

座喜味城  中部 読谷村
  入場料  無料
国指定史跡 1972年5月15日
座喜味城は15世紀の始め頃、護佐丸によって築城されました。
  独特の曲線を描いて積まれた城壁は、「あいかた積み」と呼ばれる技法です。また、アーチ型の石門は沖縄で最も古いものと言われています。

・勝連城跡(かつれん)

勝連城跡  中部 うるま市
  入場料  無料
国指定史跡 1972年5月15日
勝連城は小高い丘の上にあり、周囲は断崖になっており、外的からの攻撃にも強い城でした。
  勝連城は11世紀から12世紀頃に築城されました。5つの階段状の郭から成り、指定面積は約11,860平方メートルとなっています。
  城主は琉球王国に対する最も有力な按司だった阿麻和利(あまわり)の居城でした。阿麻和利は王権の奪回を図り首里城を攻めますが、大敗して滅びました。

・今帰仁城跡(なきじん)

今帰仁城跡  北部 今帰仁村
  入場料  大人400円
国指定史跡 1972年5月15日
今帰仁城は三山時代に北山国王の居城で北山の拠城でした。また、中国や東南アジアとの貿易も盛んで発掘調査により陶磁器などが出土しています。1416年に中山王の尚巴志(しょうはし)によって三山を統一されてからは1665年まで琉球王府から派遣された監守の居城だったと伝えられています。石垣は「野面積み」といわれ最も古い造り方と言われています。1月中旬から2月初めまで緋寒桜(ヒカンザクラ)がきれいに咲きます。

・斎場御嶽(せいふぁーうたき)

斎場御嶽  南部 那覇
  入場料  大人200円
国指定史跡 1972年5月15日
知念半島にある斎場御嶽は琉球の始祖「アマミキヨ」が造ったとされ、国始めの七御嶽の一つといわれる琉球最高の聖地です。琉球の最高神女であった聞得大君(きこえおおきみ)の就任の儀式はこの斎場御嶽で執り行われました。ポイントごとに説明文が書かれています。山の中にあるため沖縄の自然も体験できます。入口付近は足元がやや悪く急な傾斜や階段です。滑りやすいのでスニーカーなどの歩きやすい靴で行かれることをお勧めします。

・ 園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきいしもん)

園比屋武御嶽石門  南部 那覇
  入場料  無料
国指定重要文化財 1972年5月15日
園比屋武御嶽石門は守礼門と首里城の正門にあたる歓会門の中間にあり、尚真・しょうしん(1477~1526年)によって1519年に創建されたことがわかっています。築造者は竹富島出身の西塘(にしとう)。国王が首里城を出て各地を巡る際に道中の安全を祈願した拝所です。また琉球王府の最高位の神女の聞得大君(きこえおおぎみ)が斎場御嶽で即位式をおこなう際にもここで祈願したと伝えられています。沖縄戦で大破しましたが見事に復元されています。今も祈願に訪れる人が後を絶たちません。首里城正殿へ行く途中にあります。

・玉陵(たまうどぅん)

玉陵  南部 那覇
  入場料  200円
国指定重要文化財・史跡 1972年5月15日
玉陵は尚真王(しょうしんおう)が父・尚円王(しょうえんおう)の遺骨を改葬するため、1501年に作られました。玉陵は作りを首里城正殿に似せており、墓室前には獣や花などを掘った石欄が取り付けられています。
  玉陵の面積は2,242平方メートルです。

・識名園(しきなえん)

識名園  南部 那覇  
  入場料  大人300円
国指定特別名勝 2000年3月30日
識名園は、池の周りを歩きながら景色の移り変わりを楽しむことを目的とした回遊式庭園で、外国使臣の歓待や国王一家の保養のため、1799年に建てられました。
  沖縄戦で壊滅的な破壊を受けましたが、1975年から20年の歳月をかけて現在の姿になりました。
  識名園の指定面積は41,997平方メートルです。

・世界遺産とは
 

世界遺産とはすぐれた普遍的価値を持つ、人類共通の財産です。世界遺産は地形や生物、景観などの「自然遺産」、建築物、遺跡などの「文化遺産」、両方の要素をもつ「複合遺産」の3つに分類されます。
  1972年、パリで開かれた第17回ユネスコ総会で「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)」が採択されました。日本はこの条約を1992年に批准し、125番目の締結国となりました。
  世界遺産条約の締約国は国内の登録候補地を世界遺産委員会へと推薦します。候補地はユネスコの諮問委員会の調査を受け、さらに委員会の設けた登録基準をクリアし、世界遺産リストへと登録されます。
  沖縄の「琉球王国のグスク及び関連遺産郡」は2000年12月に文化遺産として世界遺産に登録されました。




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